やはりいけないと思う。
やってはいけないことをやったのだと思う。
古今東西、古典であったり、現代のものであったり、膨大な著作の中には素晴らしい言葉が含まれているものはいっぱいあるでしょう。
何かを読んでいて、そういう、自分にとって特別と感じられる言葉に出会うのは無上の楽しみであり、それゆえ本を読むということもあるわけです。
そして、元気づけたり励ましたりすることを目的に書かれている自己啓発本もいっぱい出ていて、実際わたしもリチャード・カールソンの本を読んだりした時期もあるので、この本を読んで感動したり生きる励みになったりした人をどうこう言うつもりは全くありません。
どのページを開いても、「明るく前向きな言葉」が並んでいます。
確かに感動するし心に響きはするでしょう。
だから、この本の個々の言葉がいいとかいけないというつもりも毛頭ありません。
でも、
これはニーチェではない。
ニーチェの世界観を表しているものではない。
これがニーチェだと思われてしまうのはあまりにも危険だ。
と、わたしは思います。
例えば、ショスタコーヴィチ先生やマーラー監督の作品の中のある旋律が「馴染みやすく感動的だ」と思ったとします。
ある曲のある楽章を「これはウケる」と思ったとします。
それらの部分部分を抽出し、つなぎ合わせ、時に「このほうが聴きやすいから」と、書かれている音符を削ったり付け加えたりしながら勝手に編纂したものを
ショスタコーヴィチの音楽エッセンス
とか
超マーラー
というタイトルをつけて世に出すことができるでしょうか。
ある特定の旋律が生まれるにはその前からの曲の流れというものがあり、さらにはその旋律が含まれる楽章はある曲において、その場所として作曲者の意図で書かれているわけで、それを勝手にいじくりまわすのは、それは神をも畏れぬ暴挙!
愛や畏敬の念があれば、決してできないこと。
この人にはニーチェへの愛はないのでしょうか。。。
ベストセラーは作られ、そして本質とは違う何かまがまがしいものが世の中にどんどん広がっていく。
悲しいです。
なお、このエントリは自動的に消滅するかもしれない。
アウトプットとして書いたけれど、基本的にブログにはできるならば楽しいことだけを書いていきたいと思うので……。
やってはいけないことをやったのだと思う。
古今東西、古典であったり、現代のものであったり、膨大な著作の中には素晴らしい言葉が含まれているものはいっぱいあるでしょう。
何かを読んでいて、そういう、自分にとって特別と感じられる言葉に出会うのは無上の楽しみであり、それゆえ本を読むということもあるわけです。
そして、元気づけたり励ましたりすることを目的に書かれている自己啓発本もいっぱい出ていて、実際わたしもリチャード・カールソンの本を読んだりした時期もあるので、この本を読んで感動したり生きる励みになったりした人をどうこう言うつもりは全くありません。
どのページを開いても、「明るく前向きな言葉」が並んでいます。
確かに感動するし心に響きはするでしょう。
だから、この本の個々の言葉がいいとかいけないというつもりも毛頭ありません。
でも、
これはニーチェではない。
ニーチェの世界観を表しているものではない。
これがニーチェだと思われてしまうのはあまりにも危険だ。
と、わたしは思います。
例えば、ショスタコーヴィチ先生やマーラー監督の作品の中のある旋律が「馴染みやすく感動的だ」と思ったとします。
ある曲のある楽章を「これはウケる」と思ったとします。
それらの部分部分を抽出し、つなぎ合わせ、時に「このほうが聴きやすいから」と、書かれている音符を削ったり付け加えたりしながら勝手に編纂したものを
ショスタコーヴィチの音楽エッセンス
とか
超マーラー
というタイトルをつけて世に出すことができるでしょうか。
ある特定の旋律が生まれるにはその前からの曲の流れというものがあり、さらにはその旋律が含まれる楽章はある曲において、その場所として作曲者の意図で書かれているわけで、それを勝手にいじくりまわすのは、それは神をも畏れぬ暴挙!
愛や畏敬の念があれば、決してできないこと。
この人にはニーチェへの愛はないのでしょうか。。。
ベストセラーは作られ、そして本質とは違う何かまがまがしいものが世の中にどんどん広がっていく。
悲しいです。
なお、このエントリは自動的に消滅するかもしれない。
アウトプットとして書いたけれど、基本的にブログにはできるならば楽しいことだけを書いていきたいと思うので……。